トンイ考2 チャン・ヒビンとの戦い

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趙師錫(チョ・サソク) 禧嬪張氏の実の父親???

      2013/09/20

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趙師錫(チョ・サソク:조사석)をご存知でしょうか?

ドラマ・トンイには出てこない大物なのですが、史実ではゴシップ紙の一面を大いに賑わしています。彼は一体どんな人だったのでしょうか?

その前に、ウィキペディアや他のブログにも都承旨(トスンジ)=趙師錫というような誤った記述が見受けられますが、趙師錫は南人の領袖である左相(チャサン)呉太錫(オ・テソク)のモデルだと思います。

明確に断定はできませんが、名前に「錫」の字を使っています。同じ字を使っているあたり、イ・ビョンフン監督のギミックだと思うのです。また、趙師錫の現役最終役職が左議政(チャイジョン:左相のこと)で年代もだいたい合致するからです。

都承旨には韓国の公式サイトにも名前がついていませんし、趙師錫(チョ・サソク)自身が承旨の役職であったのは1680年よりも以前の短い期間で、仁顕王后(イニョンワンフ:인현왕후)が入宮する以前なので、オクチョンやトンイが承旨時代のチョ・サソクに会うはずもないのです。

 

さて、彼の経歴についてざっと見て行きましょう。

※記述がマニアックなので、すっ飛ばして読んでいただいても結構です。長いですし(笑)

以降は面白いエピソードなので読んでください!

 

1632年(仁祖10)~1693年(粛宗19) 刑曹判書・趙啓遠(チョ・ゲウォン:조계원)の子として生まれました。兄弟も多く、男子7人中5人が科挙に受かっています。

1660年(顕宗1)に進士(チンサ:진사)となり、1662年に増廣文科の乙科で合格し、承文院の館職(クァンジク:관직)や注書(チュソ:주서)などを経て、1666年には史官(サグァン:사관)の検閲(コムヨル:검열)・奉教(ポンギョ:봉교)・兼説書(キョムソルソ:겸설서)と出世して行きました。

1667年、史官(サグァン:사관)の時に、許積(ホジョク:허적)らを弾劾した諫官(カングァン:간관)7名を流刑としたことを、史草に記録するなとの王命に背き、王についての事項はすべて記載しなければならないとの矜持を貫き、王の怒りを買って免職されました。

程なくして許され、転籍後はいろいろな職を任され順調に昇進し、1675年(粛宗1)には水原府使(スウォンブサ:수원부사)、以後は黄海道観察使(ファンヘド カンチャルサ:황해도관찰사)・礼曹参議(イェジョチャミ:예조참의)・承旨(スンジ:승지)・江原道(カンウォンド)観察使・忠清道水使(チュンチョンドスサ:충청도수사)・京畿道観察使(キョンギドカンチャルサ:경기도관찰사)・吏曹参判(イジョチャンパン:이조참판)兼・守禦使(スオサ:수어사)・知中樞府事(チジュンチュブサ:지중추부사)など、地方の要職などを歴任して、1680年礼曹判書(イェジョパンソ:예조판서)となりました。

さらに、大司憲(テサホン:대사헌)・戸曹判書(ホジョパンソ:호조판서)・江華留守(カンファユス:강화유수)・兵曹判書(ピョンジョパンソ:병조판서)・判義禁府事(パニグムブサ:판의금부사)・右参賛(ウチャムチャン:우참찬)・左参賛(チャチャムチャン:좌참찬)・吏曹判書(イジョパンソ:이조판서)などの要職を歴任して、1687年に右議政(ウイジョン:우의정)になりました。 その間の1683年には冬至使(トンジサ:동지사)で清国に行ったりもしました。

1688年左議政(チャイジョン:좌의정)になりましたが、この時、第16代仁祖(インジョ:인조)の孫で、第19代粛宗(スクチョン)が兄のように慕っていた1歳違いの叔父・東平君(トンピョングン:동평군)の横暴を論じて処罰された西人の朴世采(パク・セチェ:박세채)や南九万(ナム・グマン:남구만)などを弁護して、粛宗の怒りを買うと、病を理由に辞職しました。

翌年、外戚の名誉職である従1品判敦寧府事(パンドンニョンブサ:판돈녕부사)、続いて正1品領敦寧府事(ヨンドンニョンブサ:영돈녕부사)となりました。※彼は王族の親戚。

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1691年、前年の王世子冊封祝賀会に参加しなかった罪で固城に流刑とされ、配所で亡くなりました。 死後1694年の甲戌換局(カプスルファングク:갑술환국)時に名誉は回復され、諡号に忠の字のついた忠憲(チュンホン:충헌)を贈られました。

粛宗実録にも記載されているのですが、禧嬪張氏(ヒビンチャンシ:희빈장씨)の母・尹氏(ユンシ:윤씨)は趙師錫(チョ・サソク)の実家の女婢でした。

そのため、1687年に右議政(ウイジョン)の地位についた際、西人(ソイン)から「尹氏と趙師錫は長年愛人関係にある」「愛人の子(禧嬪張氏)を後宮に送り込んだ」というような醜聞を立てられました。

結局は虚偽の主張だとされ西人のほうが処罰対象となったのですが、それだけ西人と南人(ナミン)の対立が激しかったとも言えます。

 

彼の経歴や周辺の情報を調べていて、どうにも府に落ちなかったことがあります。

彼は東平君(トンピョングン)とも親戚関係にあり南人であることは確かなのですが、彼の弟の趙嘉錫(チョ・ガソク:조가석)は西人の老論(ノロン)として、激しく南人と対立しています。

兄と弟で派閥が分かれることはあるのですが、趙師錫(チョ・サソク)自身も、後年、西人をかばってみたり、南人の影響下にある禧嬪張氏の子・昀(ユン:윤:後の景宗)の王世子冊封祝賀式に出なかったりと、南人にあるまじき行動をとっています。

過去の史官だった頃のエピソードを見ると、矜持が揺るがない一本気な儒者としての側面も見て取れますが、日和見で優柔不断だったとも見て取れます。そもそも、派閥闘争など好きではなかったのかも知れません。

このあたりの趙師錫像は、資料が殆ど無いためどのようにでも解釈ができそうです。

ドラマ・トンイではストーリーのじゃまになるためか、彼や東平君(トンピョングン)は出て来ませんが、興味のある方は、キム・ヘス版のチャン・ヒビンの視聴をしてみてください!

 

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