トンイ考2 チャン・ヒビンとの戦い

トンイ考2 チャン・ヒビンとの戦いはトンイ考の後続サイトです。韓国時代劇トンイについて歴史的背景などを考察します。

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辛壬士禍 その後の延礽君(ヨニングン)はイバラの道を歩んだ!?(2)

      2014/05/04

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辛壬士禍(シニムサファ:신임사화)

1721年(景宗1)〜1722年に王弟・延礽君(ヨニングン:연잉군)による代理聴政、いわゆる世弟聴政(セジェチョンジョン:세제청정)問題に端を発した少論による老論(ノロン)への最大の粛清です。

辛丑(シンチュク:신축)年と壬寅(イミン:임인)年にまたがったので、このように呼ばれています。辛丑換局(シンチュク ファングク:신축환국)壬寅獄事(イミン オクサ:임인옥사)と、分けて呼ばれることもあります。

前回の記述のように、老論(ノロン:노론)が世弟聴政を推進する過程で、景宗(キョンジョン:경종)に不敬・不忠を行い、少論(ソロン:소론)から攻撃を受ける口実を与えたために起こりました。

トンイ 最終回 英祖(ヨンジョ:영조)

 

辛壬士禍(シニムサファ:신임사화)

1721年12月、ついに少論の過激派・金一鏡(キム・イルギョン:김일경)を中心に、「老論による王権に対する挑戦で謀反である」との上訴が出され、老論4大臣以下老論の重臣たちの弾劾が始まりました。

そして、老論政権が倒れ、少論政権が樹立されたのです。

老論4大臣の領議政(ヨンウイジョン:영의정)金昌集(キム・チャンジプ:김창집)左議政(チャイジョン:좌의정)李健命(イ・ゴンミョン:이건명)、かつて粛宗と単独面談を行った領中枢府事(ヨンジュンチュブサ:영중추부사)李頤命(イ・イミョン:이이명)判中枢府事(パンジュンチュブサ:판중추부사)趙泰采(チョ・テチェ:조태채)以下、多くの老論が死刑または流刑とされました。

これにより、朝廷のトップ三政丞(サムジョンスン: 삼정승)を含め、要職は少論が占めることになりました。翌1722年3月、南人(ナミン:남인)の庶出・睦虎龍(モク・ホリョン:목호룡)が老論の長老たちの師弟が、内侍や宮女と結託して景宗を弑逆しようとしたと三急手説(サムグプスソル:삼급수설)をでっち上げ、老論へのさらなる粛清を敢行しました。

三急手説とは王を殺害するための3つの手法のことを言い、剣による大急手(テグプス:대급수)、毒による小急手(ソグプス:소급수)粛宗(スクチョン)の教旨を偽造・執行する平地手(ピョンジス:평지수)を言います。

この睦虎龍(モク・ホリョン)、どこかで聞いた名前ではありませんか?そう、延礽君(ヨニングン)とともに淑嬪崔氏(スクビンチェシ:숙빈최씨)の眠る坡州・昭寧園(パジュ ソリョンウォン:파주 소령원)を造成するときに尽力した風水師です。

彼は日和見な人物で、当初は老論に取り巻いていましたが、このときには少論(ソロン)に与していました。

この結果、老論の長老たちの師弟は拷問により死に、代理聴政をすすめたことを平地手(ピョンジス)と関連付けられ老論4大臣も賜死されます。

最終的にこの8ヶ月での処分者は流刑者なども含めて173人に上り、少論(ソロン)がかつて老論から受けたどの粛清よりも大きいものとなりました。

睦虎龍(モク・ホリョン)はこの功により庶子にもかかわらず同知中枢府事(トンジジュンチュブサ:동지중추부사)へ上りました。

 

英祖(ヨンジョ:영조)の即位とその後

通常、でっちあげにしろ、このような謀反が起きた場合、当然ながら担ぎ上げられた王族は死を賜ります。延礽君(ヨニングン)の命も風前の灯で、処罰対象として幾度となくその名が挙がりました。

けれど、景宗(キョンジョン)はかたくなに延礽君への処断を拒みます。それほど兄弟愛が深かったのです。また、大妃(テビ)となっていた仁元王后(イノンワンフ/イヌォンワンフ:인원왕후)延礽君を庇護しました。

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これで、景宗(キョンジョン)が長生きすれば少論(ソロン)も長期政権を樹立することができたのでしょうが、わずか2年後の1724年に景宗は亡くなってしまいます。そして延礽君(ヨニングン)第21代英祖(ヨンジョ:영조)となります。

こうなると、老少の立場は一気に逆転します。自分の命を脅かした集団を英祖が許すはずもありません。睦虎龍(モク・ホリョン)ほか少論強硬派は逆に粛清対象となり死刑とされ、辛壬士禍(シニムサファ)により罪人として処断された者は復権しました。

 

このような苦い経験から、英祖(ヨンジョ)蕩平策(タンピョンチェク:탕평책)を用い、派閥の均衡を図ろうとしました。けれど、老論(ノロン)優位の状況は、若干の変動はあるものの、それ以降1860年代まで続くことになります。

また、このような弟への王位の継承は、後々も禍根を残します。英祖による景宗(キョンジョン)毒殺説などの風聞が広まったり、南人と少論強硬派による謀反が起きたりと、治世の初期には苦労が耐えませんでした。

前者については「イ・サン考」の景宗の死と思悼世子 ケジャンと生柿や、景宗がモチーフになったドラマ「屋寝部屋の皇太子」のイ・ガクの正体は景宗?にまとめています。参照してみてください!

後者は李麟佐の乱(イインジャエナン:이인좌의난)とも戊申乱(ムシンナン:무신란)とも言われますが、これにより近畿を拠点とする一部を除き南人(ナミン)が完全に没落し、少論強硬派も二度と政権中枢の地位に上がることがありませんでした。

ドラマ イ・サンで描かれている老論(ノロン)の権勢や、「トキメキ☆成均館スキャンダル」Dr.JINでの南人(ナミン)の不遇は、このときの英祖(ヨンジョ)の怒りによるものなのです。

どうでしょう?トンイのエンディングで英祖はほんわかとしていましたが、父の死後は常に死の恐怖におびえ暮らし、即位後もその正当性を疑う風聞や事件に悩まされ続け、ついにはわが子思悼世子(サドセジャ:사도세자)をも死に至らしめました。

歴史はその一部だけを見ると評価を見誤るという典型が、彼の生涯にあるのではないでしょうか?

 

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