トンイ考2 チャン・ヒビンとの戦い

トンイ考2 チャン・ヒビンとの戦いはトンイ考の後続サイトです。韓国時代劇トンイについて歴史的背景などを考察します。

チャン・ヒビン賜死前夜の情景

      2014/03/23

[ad#336-280]トンイ第54話。禧嬪張氏(ヒビンチャンシ:희빈장씨)側の悪事が全て明るみになり、事件に関わるものはすべて囚われの身となりました。

これらの描写をチャン・ヒビン賜死前夜の情景として語っていきます。

まず、ドラマで描写されている淑嬪崔氏(スクビンチェシ:숙빈최씨)延礽君(ヨニングン:연잉군)昑(クム:금)への暗殺未遂は全くのフィクションです。

また、もう2つ修正しておかなければならないことがあります。

禧嬪(ヒビン)の母・坡平尹氏(パピョンユンシ파평윤씨)は1698年に亡くなっているため、息子・張希載(チャン・ヒジェ:장희재)とともに刑場にいることはありえないということと、張希載(チャン・ヒジェ)もまた1694年以来、済州島に流刑となっているため、都城にはいなかったということです。

ちなみに、トンイ54話は1701年10月です。

 

史実はどうだったのか?

実はドラマ同様に決定的瞬間を演じたのは淑嬪崔氏(スクビンチェシ)でした。トンイは太刀を受けたことでその瞬間を演出しましたが、史実の淑嬪崔氏は懐に秘めていた刀を抜いたのです。もちろん本当の刀ではありませんが。

淑嬪崔氏(スクビンチェシ)の実像はトンイとは真逆の性格で、火の粉が降りかからないようにひっそりと佇んでいる人でした。また、まわりにいる宮女にもそれを徹底させていました。そんな人だったからこそ抜いた刀がとても有効的に働きました。

淑嬪崔氏はその名では粛宗(スクチョン:숙종)実録にはたった8回しか出て来ません。その内の1つ1701年(粛宗27)9月23日の記述に残っている行為が、禧嬪張氏(ヒビンチャンシ)の死を決定的なものにしました。

 

粛宗実録の記述

「至是, 巫蠱事果發, 外間或傳,淑嬪崔氏, 追慕平日逮下之恩, 不勝痛泣, 密告於上云」

「これにいたり、呪いの事件が発覚し、そのようなうわさを聞いた淑嬪崔氏は、日頃受けた仁顕王后(イニョンワンフ:인현왕후)からの恩を追慕し、痛哭に勝てず、このように粛宗に密告した」

とあります。そう、淑嬪崔氏(スクビンチェシ)の刀とは、密かに告げる事だったのです。

上記のように締められている文の内容は以下のとおりです。(この文章は粛宗の備忘記のため、聞いたことと粛宗の感想が併記されています)

 

「禧嬪張氏(ヒビンチャンシ)は中殿(チュンジョン:중전)への挨拶に一度も来なかっただけでなく、仁顕王后(イニョンワンフ)のことを閔氏(ミンシ:민씨)と呼び、「閔氏はよこしまな人に見える」と言った。また、就善堂(チソンダン)の西側にこっそりと神堂を設置して、日々2・3人の奴婢と呪いの儀式をおこなった。

こんなことを我慢できるなら、すべてのことを我慢できるのではないか?済州島に流刑としている張希載(チャン・ヒジェ)を先に処刑しろ!(粛宗の怒り)

『禧嬪張氏(ヒビンチャンシ)の宮女は禁止されている内殿にまではいりこんで、障子に穴を開けてまでわたしのことを見ている。病状がおかしいのは「祟りに違いない」と皆が言っている。疑わしいことも多く、実際に不審な痕跡もたくさんあった。この2年間の病気が治らないのが苦しい』と、涙をボロボロと流し、仁顕王后(イニョンワンフ)は言っておられました。」

 

ドラマでは人形と札という呪いの物証が出てきましたが、実録にはそれらについて全く触れられていません。おそらくは物的証拠もなしに禧嬪張氏(ヒビンチャンシ)の罪が確定したようです。

日頃悪態をついていた禧嬪張氏の様子と、三歩下がって佇んでいた淑嬪崔氏(スクビンチェシ)の涙の訴えにより、禧嬪張氏は死を賜ったのでした。

これが巫蠱の獄事(ムゴエオクサ:무고의 옥사)の真相です。

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