トンイ考2 チャン・ヒビンとの戦い

トンイ考2 チャン・ヒビンとの戦いはトンイ考の後続サイトです。韓国時代劇トンイについて歴史的背景などを考察します。

仁顕王后の死 少論の登場?

      2014/02/02

[ad#300-250]トンイ第50話。品格が高く和みを与えてくれていた仁顕王后(イニョンワンフ:인현왕후)が亡くなりましたね。1701年(粛宗27)8月14日。享年35歳でした。

もちろん、トンイを中殿(チュンジョン:중전)へという遺言はフィクションです。彼女の死により内命婦(ネミョンブ:내명부)だけでなく、朝廷のパワーバランスも変化していきます。彼女は老論(ノロン:노론)でした。

それに呼応するかのように少論(ソロン:소론)の領袖・右議政(ウイジョン:우의정)イム・サンヒョンが登場します。もちろん、この人物もフィクションです。

ドラマ内では彼が登場するまで西人(ソイン:서인)v.s.南人(ナミン:남인)という構図で派閥闘争が展開されていましたが、1683年、トンイ(동이)が14歳の時点ですでに西人(ソイン)は老論(ノロン)と少論(ソロン)に完全分裂しています。

この分裂については、西人の分裂 老論と少論、懐尼是非(フェニシビ)をご覧下さい。ドラマに出てきてないところですので、ちょっと難しく感じるかもしれません。

 

さて、放送内での解説では、「少論・・・党派の1つで他に南人・西人・老論など」とありましたがこれではすべての党派が並列に存在しているかのようで、解説としては瑕疵があると言わざるを得ません。重ねて言いますが、小論と老論は西人が分裂したものです。

ドラマ内では3党派の三つ巴のような様相ですが、すでに 南人(ナミン)は1694年に仁顕王后(イニョンワンフ)が中殿に返り咲き、禧嬪張氏(ヒビンチャンシ:희빈장씨)が没落した時点で同じく没落していますので、実際には老少の党派争いが激化して行きました。

歴史的には少論&世子v.s.老論&延礽君(ヨニングン:연잉군)となります。それぞれ粛宗(スクチョン:숙종)の王子たちは派閥争いの犠牲者といってもよいでしょう。

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