トンイ考2 チャン・ヒビンとの戦い

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踏橋(タプキョ)とは?季節が合わない・・・ 

      2014/03/02

[ad#300-250]踏橋(タプキョ:답교)、ドラマ内では踏橋遊び(タプキョノリ:답교놀이)として紹介されていました。

世子(セジャ:세자)延礽君(ヨニングン:연잉군)昑(クム:금)が王宮を抜け出し祭りを楽しんだあと、夕刻の勉強会・夕講(ソッカン:석강 )に出るという世子を、願い事がしたいからとひきとめてしまったために事件が起こってしまいました。

それでは踏橋(タプキョ:답교)とはいったいどういったモノだったのでしょうか?

 

行われたのが正月ポルムナル(보름날)といいますから、15夜の満月の日です。漢城府では中心部の広通橋(クァントンギョ:광통교)を中心に行われました。

1849年位成立した朝鮮の風俗を紹介した洪錫謨(ホン・ソモク:홍석모)東国歳時記(トングクセシギ:동국세시기)他、色々な書物で紹介されています。

記録の差や地域の差などもありますが、総合して説明していきます。

中国の漢の時代から行われていたようです。半島では高麗(コリョ:고려)で盛んになり、朝鮮にも引き継がれました。橋を往来し橋を踏むことで厄除けを祈願しました。半島ではタリ(다리)という発音がで同じなので、足の健康を祈願したともいわれています。

あまりにも参加者が多いため、両班は14日に行い両班踏橋(ヤンバンタプキョ:양반답교)といわれ、婦女子は16日に行いました。朝鮮中期以降は婦女子の外出がままならなくなり、16日の踏橋は自然消滅しました。

 

さて、ここからがトンイ考です。

仁顕王后(イニョンワンフ:인현왕후)が亡くなったのが1701年8月14日(旧暦)です。以前も書きましたがこの後2ヶ月ほどでいろいろな事件が起きるのです。

踏橋(タプキョ)は先述したように正月の行事です。旧暦の正月は1702年。大事件が起きるはずの10月を飛び越えてしまいました(汗)

スルーしても良い話題だったかもしれませんが、四季のある国の風習がぞんざいに扱われているようで遺憾に思い、あえて突っ込んでみました。

 

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