トンイ考2 チャン・ヒビンとの戦い

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チャン・ヒビンの死。淑嬪(スクビン)謀略説。中殿の座を?

      2016/06/13

[ad#300-250]トンイ第55話終了後、さすがに衝撃を受けた回だったからか、アクセスが大変なことになっていました。

ご期待に添えるかどうかわかりませんが、禧嬪張氏(ヒビンチャンシ:희빈장씨)の死の様子を時系列を踏まえて解説していきます。

ドラマの描写と史実とでは少々異なるところがあります。

禧嬪張氏(ヒビンチャンシ:희빈장씨)

粛宗(スクチョン:숙종)の教旨

1701年(粛宗27)10月7日。以下のような教旨を出します。

自今著爲邦家之典  不得以嬪御登后妃

今後、国の法典として明白に決める。嬪御(後宮)が后妃の席に上がることはできなくせよ。

ドラマ内ではトンイこと淑嬪崔氏(スクビンチェシ:숙빈최씨)の意を汲んで明文化したような描写でしたが、史実では禧嬪張氏(ヒビンチャンシ)に対する自害の御命よりも前に、この教旨が出ています。ここに歴史家が思考を巡らす余地が残されています。(後述)

 

粛宗の下命

1701年(粛宗27)10月8日。ついに禧嬪張氏(ヒビンチャンシ)へ運命の下命がありました。

張氏依前備忘, 使之自盡。 噫! 世子之情事, 予豈不念?

張氏を以前「備忘記」に記載したように自害させよ。ああ、世子のことを、どうして予が考えなかったか?(いや、考えて余りある)

前後の文章には、仁顕王后(イニョンワンフ:인현왕후)への嫉妬と呪いの儀式を行ったことを指摘し、これを看過し得ず自害させること、また、世子のことを考えに考えたものの、どうしようもないことだという、粛宗の思いが記載されています。

この日付はトンイ第54話とノーカットのトンイ第55話に出てくるものと一致しています。

 

禧嬪張氏が絶命した日は?

1701年(粛宗27)10月10日。

下敎曰 張氏旣已自盡  令該曹喪葬祭需 參酌擧行 

王が命じるに、張氏がすでに自害したため、当該官庁は喪葬の祭需を参酌して挙行するようにしなさい。と。

このように、10月8日に自害の命が下り、10日には葬儀の命が下っています。この3日間の内のいずれかに禧嬪張氏(ヒビンチャンシ)は亡くなりました。

 

淑嬪崔氏(スクビンチェシ:숙빈최씨)謀略説

さて、ここからが淑嬪(スクビン)謀略説です。とんでもない説だと思われるかもしれませんが、しっかりとした根拠のある理論的な学説です。

個人的にもひょっとするとそうだったのかもと思っています。もちろん、信頼できる自叙伝でもない限り、歴史はすべて憶測のでしかありませんので、この説も憶測の範疇にあります。

まずは、前回の記事チャン・ヒビン賜死前夜の情景を熟読してくだされば幸いです。

1701年(粛宗27)8月14日に仁顕王后(イニョンワンフ)が亡くなり、翌月9月23日に禧嬪張氏(ヒビンチャンシ)の死を決定的なものにした密告を粛宗(スクチョン)に対して行いました。

そして10月7日に後宮は中殿になることはできないとの御命があり、翌日10月8日に自害せよとの下命がありました。

この時系列から考えられることは淑嬪崔氏(スクビンチェシ)が中殿の座を狙っていたということです。

 

仁顕王后(イニョンワンフ)が亡くなる前にも亡くなった直後にも密告する機会はあったはずです。けれども実際には亡くなってから1か月後に密告が行われました。

旧トンイ考のトンイと肅宗の本当の出会いは?でも紹介していますが、幼い頃から宮廷で生活していたトンイこと淑嬪崔氏(スクビンチェシ)は、決定的瞬間をつかむことに長けていたようです。韓国語で言うヌンチ(눈치)があるタイプだったのでしょう。

その上、日頃から慎ましく、お付きの宮女にも出しゃばることを禁止していた彼女ですから、ここぞとばかりに抜いた密告という刀はまさに伝家の宝刀で、みごとに禧嬪張氏(ヒビンチャンシ)の体を貫きました。

けれども、粛宗は羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹いたのか、淑嬪崔氏(スクビンチェシ)以上にヌンチがあるタイプだったのか、後宮が中殿(チュンジョン)に上ることを禁止しました。

わざわざ法制化したところを見ると、彼女と彼女のまわりにいる老論(ノロン:노론)に対して何か危険なものを察知したからだと思われます。

 

もともと彼女に欲があったのかどうかはわかりません。仁顕王后(イニョンワンフ)という盾が無くなり延礽君(ヨニングン:연잉군)昑(クム:금)と自らの生きる道を探っていたのかもしれません。禧嬪張氏(ヒビンチャンシ)による逆襲は必然だったのでしょうから。

また、このとき劣勢にに立たされていた老論(ノロン)の存在が生きる道だったのかもしれません。そんな状況下で、彼女はその当時の内命婦の序列第2位に位置しており、第1位の禧嬪張氏(ヒビンチャンシ)を追い落とす武器を持っていました。

これらの総合的なベクトルが中殿に向かっていなかったかというと、否という他ありません。また、粛宗が禁止を明文化したことを逆説的に考えても、淑嬪崔氏(スクビンチェシ)に中殿へ上がる意思があったと推察されます。それが野望かどうかは別にして。

個人的には彼女自身の野望ではなく、老論が絡んだ政治的状況が、彼女を突き動かしたのではないかと思うのです。

そして、この数年後の彼女の処遇も、この時期のことがリンケージしているのではないかと思われます。それについてはまた後日紹介します。

 

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