トンイ考2 チャン・ヒビンとの戦い

トンイ考2 チャン・ヒビンとの戦いはトンイ考の後続サイトです。韓国時代劇トンイについて歴史的背景などを考察します。

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仁元王后が男子を生んでいたら?

      2016/09/22

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仁顕王后(イニョンワンフ:인현왕후)亡き後、第三継妃として中殿(チュンジョン:중전)の座についた仁元王后(イノンワンフ/イヌォンワンフ:인원왕후)

もし、彼女が王の嫡出男子・大君(テグン:대군)を生んでいたら、歴史はどうなっていたのでしょうか?

それを紐解く答えは、約100年前の王朝史にあります。

第14代宣祖(ソンジョ:선조)は嫡出子に恵まれず、男子は庶出だけでした。

1592年、秀吉の朝鮮出兵・壬辰倭乱(イムジンウェラン: 임진왜란)に際し、王統の断絶を危惧し、急遽庶出の中から光海君(クァンヘグン:광해군)を世子に冊封しました。彼は当時18歳で、1つ年上の兄・臨海君(イムヘグン:임해군)を差し置いての冊封でした。

ドラマ・トンイを見ていると世子は幼少期に冊封すると思うかもしれませんが、基本的には上記の例のように、他の王子が青年になっても、嫡出男子が生まれる可能性があれば、世子冊封は先延ばしにされることもありました。

2度の日本軍の襲来を経て戦乱が終わります。戦後まもなく中殿の懿仁王后(ウィインワンフ:의인왕후)が亡くなります。そして、1602年、継妃として仁穆王后(インモクワンフ:인목왕후)が入宮します。

この構図、粛宗(スクチョン:숙종)代とすごく似てますよね?庶出の世子がいて継妃が入宮してきたのです。しかも世子・光海君(クァンヘグン)のは母・恭嬪金氏(コンビン キムシ:공빈 김씨)はすでに亡くなっています。

また、正式な揀擇(カンテク:간택)を経ずに後宮に入り王の生母となったのは、この恭嬪金氏禧嬪張氏(ヒビンチャンシ:희빈장씨)淑嬪崔氏(スクビンチェシ:숙빈최씨)の3人しかいません。

このように光海君(クァンヘグン)の境遇というのは他の男兄弟もいるなどの条件も含めて、のちに第20代景宗(キョンジョン:경종)になる世子・昀(ユン:윤)に似ていることがわかると思います。

 

世子・光海君(クァンヘグン)が恐れていたのは、自身が世子の座から引きずり降ろされることでした。そして、その恐れが現実のものとなる可能性が高まりました。1606年、継妃・仁穆王后(インモクワンフ)が嫡出男子・永昌大君(ヨンチャンデグン:영창대군)を生んだのです。

宣祖(ソンジョ)はことのほか喜び、光海君を廃し永昌大君を世子にしようと画策しました。けれど、2年後の1608年に宣祖が急逝してしまうためにその画策は実現しませんでした。しかし、画策した時点で臣下は真っ二つに分かれていました。

当然ながら光海君が王位に付いたあとは大粛清が行われ、実の兄だけでなく、わずか9歳の幼い義弟の永昌大君も亡き者にしてしまいます。

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仁穆王后(インモクワンフ)は25歳で形式上は王の母・大妃(テビ:대비)となりました。その後、父を殺され息子を殺され自身も廃され西宮(ソグン:서궁)に幽閉されてしまいます。このような光海君の非道がのちの仁祖反正(インジョ パンジョン:인조반정)へとつながっていきます。

 

話を粛宗代に戻します。上記のような先祖の負の歴史を当然ながら粛宗も知っていました。そして、そもそもの性癖か偶然かは定かではありませんが、粛宗は宮女を好み、宮女以外からは子を設けていません。

もし、このあたりの分別が粛宗になければ、ひょっとすると大君(テグン)を設けて大混乱ということもあったかもしれませんが、彼にはそんな気持ちは全くなかったのではないかと思います。

おそらく仁元王后(イノンワンフ/イヌォンワンフ)には手を付けてないでしょう。仁元王后自身も歴史を知らないはずはなく、子を望むことはなかったことでしょう。

ドラマ・トンイでは、 仁元王后がのちに妊娠する可能性を全く無視して話が進んでいて、「トンイは仁元王后の今後を考えてクムを養子にするという提案を断るのが本筋」という意見があります。もし、仮に史実の中でこのような提案を受けたなら、トンイは当然ながら断るべきだったと思います。

ドラマでは世子・昀(ユン:윤)が種なしという話が出たあたりから20年ほど史実の前倒しが行われて、ストーリーのつじつま合わせがうまくいっていない箇所が散見されます。今回取り上げた問題もそのひとつです。撮影時間に余裕がなくなって行き当たりばったりになっていったのでしょうね。

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